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佐伯祐三の生涯 短い人生に刻まれた代表作とその芸術的影響

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30歳という若さで生涯を閉じた洋画家・佐伯祐三。本記事は佐伯祐三の画家としての人生を紐解きながら、彼が遺した代表作と作品価値に迫ります。

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佐伯祐三の油絵との出会いと初期の作品

佐伯祐三(さえき ゆうぞう)は、1898年(明治31年)4月28日、大阪府大阪市にある浄土真宗本願寺派の光徳寺というお寺で、7人兄弟の次男として生まれました。

幼少期から好奇心旺盛で、活発だった彼が絵画と出会ったのは17歳頃の頃、5歳年の離れた従兄弟の影響から画塾に通い始めたのがきっかけだったと言われています。

佐伯祐三の画家としてのキャリアの始まり

19歳で東京に上京した佐伯祐三は、川端画学校に入って当時の日本画壇の巨匠である藤島武二に師事します。

1918年(大正7年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)の西洋画科に入学すると、引き続き藤島武二の指導を受けながら、西洋絵画の技法を学びました。

彼は特にポール・セザンヌやピエール=オーギュスト・ルノワールといった印象派の画家たちの作品に強い影響を受け、自分のスタイルを模索していきます。

学生時代の佐伯は、技術の習得に励む一方で、友人や先輩たちと切磋琢磨しながら、自分の表現を追求していました。

関東大震災と困難の中での画業

佐伯祐三がフランス渡航の準備を進めていた最中、1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生し、東京は壊滅的な被害を受けました。

荷物のほとんどが焼失するという不運に見舞われますが、この困難な状況にもめげることなく、佐伯はフランス行きを諦めませんでした。

震災から1年後の1924年、東京美術学校在学中に結婚した妻の米子と2歳になる娘の彌智子ともにパリへ向かい、そこで新たな挑戦を始めるのです。

佐伯祐三のパリでの活動と画風の確立

佐伯祐三はパリのモンパルナス地区にアトリエ兼住居を構えます。

当時のモンパルナスは、世界中の芸術家たちが集まる創造の街で、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニなどの巨匠たちが活躍していました。

佐伯は、この刺激的な環境の中で自らの画風を確立しようと、日々努力を重ねます。

パリの街並みや庶民の生活を題材にした彼の作品は、次第に力強い筆致と独自の視点を備えたものへと変化していきました。

「立てる自画像」に見る内面的苦悩と成長

佐伯祐三の代表作のひとつに 「立てる自画像」 があります。

この作品は、彼がパリ滞在中に制作したもので、モーリス・ド・ヴラマンクから「アカデミックだ」と酷評を受けた直後に描かれたとされています。

この作品には、内面的な葛藤と自分自身への問いかけが色濃く反映されています。

暗い背景と、強い眼差しでこちらを見つめる佐伯の姿は、パリでの厳しい芸術環境の中で彼が抱えたプレッシャーや不安を見事に表現しています。

「立てる自画像」は、佐伯が自分の内面と向き合い、より独自の表現を模索し続けた証ともいえる作品です。

この自画像をきっかけに、佐伯はさらに自分の画風を磨き上げていくことになります。

再渡仏と成熟した画風の確立

佐伯祐三は1926年に一旦日本に帰国しますが、翌年には再びパリの地を踏みます。

初渡仏時とは異なり、この頃の佐伯はすでに自分の画風を見つけつつありました。パリの下町風景や庶民の生活を描いた作品には、以前にも増して大胆で力強い筆致が見られるようになります。

特にこの時期の佐伯は、色彩のコントラストを巧みに操り、パリの街並みに潜む光と影の表情を鮮やかに描き出しました。

彼の作品は、現地の画家たちからも高く評価され、次第に注目を集めるようになります。

しかし、同時にこの頃の佐伯は健康面で不安を抱えていました。過酷な創作活動とパリでの生活のストレスが、彼の体に大きな負担をかけていたと言われています。

若くして死を迎えた佐伯祐三と美術界への影響

1928年に入ると、佐伯祐三の持病の結核の悪化により喀血し、精神的にも不安定な状態が続き、創作に対する情熱と身体の限界の間で葛藤する日々が続きました。

それでも佐伯は、最後の力を振り絞って 「黄色いレストラン」 などを描ききり、その後に偶然訪れた郵便配達夫をモデルとした油絵を2点、グワッシュを1点描きましたが、それからまもなく自殺未遂を経て精神病院へと入院することになります。

この頃、娘の彌智子も病に伏しており、妻が娘の看病をしていた中、1928年8月16日、佐伯祐三は30歳という若さで、誰にも看取られることなくこの世を去ります。

妻・米子による加筆と作品の再評価

佐伯祐三の死後、彼の作品の保存と評価に尽力したのは、妻の米子でした。

米子は、夫の作品を守るだけでなく、未完成だった作品に加筆を施すことで、彼の遺志を継ごうとしたことが、1995年に発見された書簡によって、明らかになりました。

この加筆に関しては、彼女の加筆が芸術的価値を高めた一方で、オリジナルの作品の意図をどこまで尊重すべきかという議論も巻き起こったことでも知られています。

佐伯祐三の代表作と作品価値

佐伯祐三の画風や表現技法は、後の日本の洋画家たちにも大きな影響を与えました。特に、都市風景や日常の情景を大胆なタッチで描くスタイルは、多くの後進の画家たちに刺激を与えています。

また、佐伯の「内面と向き合いながら作品を生み出す姿勢」は、芸術家としての覚悟を持つ者たちの指標となりました。

彼の作品が現代に至るまで高い評価を受けているのは、単なる技術的な巧みさだけでなく、作品に込められた「魂」の部分が今もなお人々の心に響くからでしょう。

そんな佐伯祐三の代表作には、このような作品があります。

<佐伯祐三の代表作>
自画像シリーズ
立てる自画像
パリ遠望
セーヌ河の見える風景
人形
広告“ヴェルダン”
郵便配達夫
黄色いレストラン

彼の死後に米子が加筆したことが明らかになった際には、以降長らく美術界でも賛否の意見が分かれているものの、彼が遺した作品は数百万円の鑑定がつくことも珍しくありません。

30歳という短き生涯に作り上げた作品の価値は、今後も残り続けていくことでしょう。

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KOBIT編集部:Fumi.T)

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