日本画家「横山大観」はどんな人生を歩んだのか?歴史と高い作品価値
昭和の戦前・戦後を生き抜いてきた日本画家・横山大観。没後65年以上経った現在も、近代日本画の巨匠として広く知られています。
今回は、そんな横山大観が歩んできた画家としての人生を紐解きながら、彼が残してきた作品の価値について迫ります。
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横山大観はどんな人?波乱万丈な生涯を紐解く
横山大観が画家としての人生を歩み始めたのは意外にも遅く、彼が20歳の時のことでした。
当時私立東京英語学校で英語を学んでいた大観は突然画家を志す決意をし、1889年に現在の東京藝術大学美術学部にあたる東京美術学校の第一期生として入学を果たします。
ここで出会ったのが、大観が生涯の師とあおいだ岡倉天心でした。
彼の熱心な指導により大観の才能は一気に花開き、1896年には同校の助教授に就任するなど、画家としての順調な人生を歩み始めましたが、その2年後に一転、当時校長だった岡倉天心への排斥運動をきっかけに、同期生の下村観山や二期生の菱田春草らとともに辞職することになりました。
その後、大観は岡倉天心ら同志とともに日本美術院を設立し、西洋画の画法を取り入れた新しい日本画を追求することになりましたが、世間には受け入れられず、作品が売れない時代が続くことになりました。
「朦朧体」という新たな日本画風で海外からの評価を掴んだ横山大観
横山大観が菱田春草とともに生み出した、輪郭線を用いずに色の濃淡によって日本画を表現する「朦朧体(もうろうたい)」は、現在は近代日本画を象徴する画風として知られていますが、その当初揶揄的な意味で使われた言葉でした。
日本では限界を感じた大観は、得意としていた英語力を活かして、春草とともに海外に渡って精力的に展覧会を開き、明治後期から大正にかけて、日本画壇の確固たる地位を築いていったのです。
戦争から敗戦へ。激動の時代の移り変わりにも筆を握り続けた横山大観
時代は昭和へと移り、戦争の荒波に突入した日本。
水戸藩士の父と岡倉天心の影響を色濃く受けていた横山大観は国粋主義的な思想を持っており、この時期には皇室への寄付やアドルフ・ヒトラーへの献呈画を描くなど、戦争協力を行うようになりました。
敗戦後にも英語力の評価も相まって、日本証券取引所の再開をアメリカ側と交渉するなど、外交面でも活躍をしたとも言われています。
没後65年以上経ってもなお色褪せぬ横山大観の高い作品価値
明治から大正、昭和という激動の時代の中でも、横山大観は自身の筆をとめることなく、多くの作品を残し続けてきました。
- 無我
- 屈原
- 瀟湘八景
- 生々流転
- 白衣観音
- 或る日の太平洋
- 富士シリーズ
- 雨霽る(あめはれる)
- 紅葉
特に横山大観を印象付ける富士の絵は、生涯1500点にも上ると言われています。
また、日本中に知れ渡った彼の作風を模倣した無名画家も当時たくさん現れており、模倣作や贋作が非常に多い画家としても知られています。
そのため、本物の横山大観の作品は原画であれば数百万~数千万円、版画作品でも数十万の買取値がつく作品も少ないと言われています。 もし、ご両親や祖父母が大切にされてきた絵画の中に、鑑定書とともに保管されていた横山大観の作品があれば、思わぬ価値が眠り続けているかもしれません。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
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