田中一村とはどんな人?奄美の自然を描いた日本画家の代表作と作品価値
パートナーや実家の家族が生前愛した絵画の数々には価値が眠っているものがあります。
今回は、大正から昭和にかけて数多くの作品を遺した日本画家・田中一村の人生を紐解きながら、作品に秘められた価値をお伝えします。
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奄美大島で生涯を閉じた田中一村の画家としての人生を紐解く
1908年(明治41年)に栃木県に生まれ、東京、千葉へと転居した後、50歳になる年に鹿児島県奄美大島に移住をした田中一村。彼の画家としての人生を生い立ちとともに見ていきたいと思います。
神童と呼ばれた幼少期から青年時代
栃木県で生まれた田中孝は、幼少期から「神童」として知られた天才的な絵描き少年でした。7歳の時、彫刻家であった父親から「米邨」という雅号を授かり、成績も優秀だった彼は芝中学校を卒業後、18歳で東京美術学校日本画科に進学しました。
同じクラスには、後に日本を代表する画家の1人として大きな功績を残した東山魁夷もいました。
参考:東山魁夷とは。日本を代表する画家の人生と作品価値を紐解く
将来を期待される美術エリートとして輝かしい未来が約束されていた米邨ですが、結核にかかってしまったことや家族の経済的困難が重なり、入学からわずか3ヵ月で退学を余儀なくされました。しかし、彼は南画(主に水墨画を基調とした東洋画)の道で独立を目指し、その分野でも才能を発揮して高い評価を受けました。
中央画壇に認められず落選し続けた千葉時代
そんな順風満帆だった幼少期から20代に入るまでの一村は、上海書画壇の趙之謙や呉昌碩の影響を受けた南画を描いていました。しかし、23歳で南画から離れ、自分の独自の画風を模索し始めました。
30歳で千葉県に移住した彼は、農村の風景や千葉の自然、動植物の写生に力を注ぐようになります。以降、千葉県には20年間住み、その間に雅号を「一村」に変えました。「白い花」が第19回青龍社展で入選しましたが、他の作品はすべて落選し、周囲からの評価を得ることができず、次第に中央画壇から距離を置くようになりました。
50歳にして日本最果ての地「奄美大島」へ移住
満を持して展覧会に出品した絵が落選し、納得のいく成果が得られなかった一村は、1958年に50歳を過ぎてから単身で奄美へ渡ることを決意しました。
その際、一村は家を売り、描きためていた絵やスケッチブックを数日間かけて焼却したと言います。まさに背水の陣を敷いた移住でした。当時、沖縄はまだ日本に返還されておらず、奄美は日本最南端の地で、まさに最果ての場所でした。
奄美での一村の生活もまた厳しいものでした。彼は大島紬の染色工として働きながら絵を描き続けましたが、絵の具を買うお金もままならず、お金が貯まると絵を描き、なくなるとまた染色工場で働くという苦しい暮らしを送っていました。その姿はまるで修行僧のようだったと言われています。
奄美で暮らしながらも、一村は中央画壇に認められたいという思いを捨てきれず、個展開催の夢を持ち続けていました。そのための資金を紬工場で働きながら貯めていましたが、生前にその夢が叶うことはなく、1977年9月11日、夕飯の支度をしている最中に倒れ、その生涯を閉じました。
「日本のゴーギャン」と称された田中一村の代表作と作品価値
田中一村の絵画は没後に注目を集め、千葉から奄美大島へと南を目指したことから「日本のゴーギャン」と称され、全国で巡回展が開催されるようになりました。
2001年には奄美市の旧空港跡地に「田中一村記念美術館」がオープンし、近年も全国各地の美術館で展示会が開催されています。
本記事執筆の2024年にも9月19日(木)〜12月1日(日)に東京都美術館で「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が開催されるなど、没後50年近く経った現在も多くの方に愛されている日本画家です。
そんな田中一村の代表作には、このような作品があります。
- 白梅
- 牡丹図
- 倣蕪米
- 倣聾米
- 倣木米
- 倣鐡齋
- 農村春景
- 蕗の薹とメダカ
- 白い花
- 花と軍鶏
- 能登四十九種薬草図シリーズ
- 千葉寺の春の作品
- ザクロ図
- 室戸岬、九里峡、由布風景
- ニンドウにオナガ
- 素描シリーズ
- 花と鳥
- ダチュラとアカショウビン
- 「奄美の杜(もり)」シリーズ
- アダンの海辺 – 千葉市美術館寄託
- 高倉のある春景
- 花と蝶、花と蛾
現在確認されているだけで、田中一村が残した作品は、下絵やスケッチを覗いても約600点弱あると言われており、美術館に所蔵されている作品以外にも、彼の作品を好んで集めていた方の手に多くの作品が残されていることでも知られています。
田中一村の作品価値は描かれた時代や状態にもよりますが、1点数十万から数百万円の買取価値があるとされており、その人気の高さがうかがい知れます。
お役目を終えた絵画をお持ちなら。支援寄付という新たな価値を
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
<参考文献>
[1] フリー百科事典 ウィキペディア日本語版,「田中一村」,available at https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91#cite_note-shindou-3
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