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東西ドイツ統一から30年以上を経て。分裂から統一の歴史を改めて知る

#東西ドイツ統一#紛争#難民支援

1990年10月3日、世界的にある重要なことが起こったことを覚えている方はいらっしゃるでしょうか。

それは、ベルリンの壁が崩壊された翌年、東西ドイツが統一された日です。

東西ドイツの統一から30年以上経過した現在、改めて東西ドイツの分断から統一の歴史を紐解いていきたいと思います。

東西ドイツが分断された歴史的背景

ドイツが東西に分断された歴史は、第二次世界大戦後のナチス・ドイツが終焉した時期に遡ります。

ドイツの首都であるベルリンは、アメリカ、フランス、イギリス、旧ソ連(以下、本文では「ソ連」と表記統一)の4カ国に占領されることとなり、ソ連が東側、その他3カ国が西側を統治されることになったのが東西分断の始まりになります。

アメリカとソ連の長い冷戦時代に突入した世界を象徴するかのように、1949年にはドイツの早期復興を目指すドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立、それに対抗するように、東側にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生しました。

そして東西ドイツ分断を決定的なものとしたのが、1961年に東ドイツから西ドイツへの亡命を防ぐために建設された、長さ約155kmに及んだ「ベルリンの壁」だったのです。

ベルリンの壁崩壊から東西ドイツの統一

東西ドイツ分断から再統一を果たすまでのおよそ28年間は、西側の繁栄と東側の大きな格差を拡げた歴史と言えるかもしれません。

東ドイツの経済状況はベルリンの壁が作られる以前からどんどんと悪化しており、もはや破綻への道が確実な状況の中で、東ドイツ国民は苦しい生活を強いられていました。

一方で、西ドイツは右肩上がりの経済成長を見せており、東ドイツの存在すら認めようとしなくなっていた状況だったのです。

そんな分断されたドイツが統一に向け加速しはじめたのは、西ドイツの首相となったヴィリー・ブラントであると言われています。

ブラント首相の働きかけによって、1973年には東西ドイツ揃って国連に加盟。1980年代には東ドイツの破綻が決定的となり、西ドイツが東ドイツを吸収する形で統一に向けて話し合いが行われていったのです。

そして、1989年11月10日に分断の象徴とされていたベルリンの壁が崩壊、翌1990年10月3日、東西ドイツが統一され、1つの国への歩みを再び開始することとなりました。

東西ドイツ統一から30年以上経った今。繰り返される歴史的危機を考える

東西ドイツ統一後のドイツは、長らく不況の時代を経験することにもなります。

30年以上が経過して、ようやく経済は上向き傾向にある中で、現在もなお旧西側と旧東側の軋轢は、ドイツ政治の安定化に向けた重い課題として存在し続けていると言われています。

一度分断してしまった“溝”は簡単に埋まるものではないことを象徴しており、これを現在のロシアによるウクライナへの軍事侵攻と重ねる声もあります。

紛争が起きれば、多くの命が失われ、祖国を追われる難民や生活に苦しむ人々もたくさん増えてしまいます。事実、ウクライナから国外へ逃れた難民は1000万人を超えたとも言われています。

東西ドイツが統一された10月3日を機会に、改めて現在起こっているウクライナ危機に目を向け、私たちができることを考えてみてはいかがでしょうか。

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