珠洲焼は震災復興の象徴~復活の歴史を持つ能登の伝統的工芸品~

石川県の能登半島最北部に位置する珠洲市で生まれた焼き物として知られる珠洲焼(すずやき)。
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古い歴史を持ちながら、消滅と復活を遂げた謎多き珠洲焼を、先の令和6年に発生した能登半島地震をきっかけに、初めてその名を知ったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今回は、この珠洲焼をテーマに、その特徴や歴史を紐解きながら、能登半島の現在(いま)を見ていきたいと思います。
珠洲焼とは?能登半島で生まれ“黒い焼き物”
珠洲焼は、平安時代末期から室町時代にかけて約400年間にわたり生産されていた中世日本を代表する焼き物のひとつです。
素朴ながらも力強い造形は、見る人に静かな感動を与え、使うほどに味わいが増す焼き物として高く評価されています。
珠洲焼の最も際立った技術的特徴は、「無釉焼き締め(むゆうやきしめ)」という製法にあります。
1週間にわたって窯焚きを行い、その最後に約1200度の高温の中で酸素の少ない還元状態に保つことによって、鉄分を多く含んだ地元の粘土を高温で焼き締めることで土の内側まで黒に変色していくのが特徴です。
珠洲焼の消滅と復活の歴史を知る
珠洲焼には、繁栄と消滅、そして復活という三つの時代があります。
かつて全国に流通するほどの盛隆を誇った珠洲焼は、時代の流れとともに姿を消し、数百年の眠りにつきました。
しかし、20世紀後半になって再びその価値が見直され、現代に甦ったのです。
ここでは、珠洲焼がどのようにして誕生し、消え、そして再び人々の手によって息を吹き返したのか、その歴史的背景を紐解いていきます。
珠洲焼の繁栄期
珠洲焼の始まりは、平安時代末期の12世紀後半にさかのぼります。
当時の珠洲は日本海交易の要衝として栄えており、北前船の航路の中継地としても知られていました。
こうした地理的条件が、珠洲焼の発展を大きく後押ししたと言われています。
鎌倉時代から室町時代初期にかけて最盛期で、生活に密着した壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などが大量に生産されていました。
特に、珠洲焼の焼成に使われていた「穴窯」や「登り窯」は、当時としては大規模かつ効率的なものであり、こうした技術力の高さがその繁栄を支えていました。
しかし、珠洲焼の運命はこの後、大きく変わっていくことになります。
急速な衰退から消失へ
室町時代の後半に入ると、珠洲焼の生産は次第に減少していき、世が戦国時代になると、珠洲焼の生産は完全に途絶えることとなります。
かつて海を越えて朝鮮半島から流通して能登を中心に繁栄した焼き物は、長い間歴史の中で「幻の古陶」として埋もれてしまったのです。
500年の時を経て復活を遂げた珠洲焼
珠洲焼の存在すら地元の人々から忘れ去られていった中、再び歴史が大きく動いたのは、およそ500年の時を経た昭和に入ってからのことです。
珠洲市内での考古学的な調査により、かつての窯跡や陶片が多数発掘されたことがきっかけで、珠洲焼の存在が再び歴史の表舞台に姿を現しました。
この発見を契機に、地元の有志や陶芸家たちが立ち上がり、文献や出土品、焼き跡などを丹念に調べながら、古来の製法を現代によみがえらせる取り組みを開始しました。
復興は簡単な道のりではありませんでしたが、情熱と努力の積み重ねによって1979年(昭和54年)に現代の珠洲焼が復興を遂げたのです。
現在では、伝統的な様式を守りながらも、暮らしに寄り添う器や花器、酒器なども多く作られており、再び人々の生活に息づく焼き物として存在感を取り戻しています。
令和6年能登半島地震で珠洲焼が受けた影響と現在
令和6年(2024年)1月1日に発生した令和6年能登半島地震は、石川県珠洲市に甚大な被害をもたらしました。
地震の規模は震度7。家屋や道路、公共インフラのみならず、地域に根付く伝統文化にも深い傷を残したことは記憶に新しいところです。
震災当時の珠洲焼への影響
珠洲焼を支える多くの窯元やギャラリーもこの地震によって倒壊・損壊し、作品や設備の多くが失われました。
しかしながら、工房によってはその前年5月に発生した能登群発地震でも壊れ、ようやく復旧したと思った矢先、再び地震に襲われてしまったところもあったのです。
このような損失は、物理的な被害だけでなく、職人たちの心にも大きな影響を及ぼし、珠洲焼という文化が再び存続の危機に立たされた瞬間でもありました。
過去に途絶えた歴史を乗り越え、現代に蘇った珠洲焼は、今回の震災を経て、さらなる試練と向き合うことになったのです。
震災から再建へ 珠洲焼の歩みと現在
そのような厳しい状況下にあっても、珠洲の作り手たちは諦めることなく、再び窯に火を入れるための努力を始めました。
全国から寄せられた支援や励ましの声は、彼らにとって大きな力となっています。
民間団体や個人からの寄付金も集まり、瓦礫の撤去や仮設作業場の整備が進められ、今も懸命な復興が進められています。
一部の窯元では、焼成施設の再建に向けたクラウドファンディングを実施したり、地域内外の若い作家やボランティアとともに、復興を支える動きも広がりを見せています。
くしくも震災を機に珠洲焼の存在を知り、その美しさと背景に共感した方々が、応援購入や訪問によって再建を後押ししているのも心強い変化と言えるでしょう。
今、珠洲焼は再び「手の中の文化」として静かに、しかし確かな力で立ち上がろうとしています。
珠洲焼を通じ復興支援で私たちにできること
珠洲焼は、ただの器ではありません。そこには、土地の風土とともに培われてきた技術、そして何百年という時間の重みが刻まれています。
一度は歴史の中で途絶えながらも、現代の人々の手によって再び蘇ったその姿は、まさに「復興」の象徴とも言えるでしょう。
令和6年の能登半島地震、そして同年の豪雨災害によって、珠洲焼は再び試練の中に置かれました。
しかし、過去にも一度途絶えたこの焼き物が、再び息を吹き返したように、今また作り手たちは立ち上がっています。その姿に、私たちができる支援の意味を見出すことができるのではないでしょうか。
復興の支え方は、人それぞれにあります。
例えば、現地を訪れて作品に触れ、作家の声を聞くこと。あるいは、オンラインで珠洲焼の器を購入し、日々の生活に取り入れてみることも支援につながります。
さらに、支援プロジェクトへの参加や、SNSなどでの情報共有もまた、大きな力になります。
現在、被災地では様々な支援が行われていますが、一例として下記のNPO団体が災害発生直後から避難所で水や衛生用品等の物資配布をはじめとした支援活動を行っています。
- 認定NPO法人グッドネーバーズ・ジャパン:石川県輪島市を中心に食品・水等の物資配布や炊き出しを実施中
- AAR Japan[難民を助ける会]:輪島市、珠洲市で炊き出し、県内各地の障がい者施設に支援物資配布
- NPO法人フードバンクとやま:水や食品の寄付、現地で炊き出しする団体への食品や備品の寄付
- 公益社団法人日本国際民間協力会(NICCO):輪島市を中心に生活物資や食料の配布
- 特定非営利活動法人ジャパンハート:能登町、輪島市を中心に要配慮者用支援物資の提供および避難所での医療分野における人的支援
- シャンティ国際ボランティア会:県内で支援物資の配布
いまだ被災地の混乱は収まっていないため、個人としてどのような支援をするのが良いのか、自分には何ができるのか、とお考えの方も多いかもしれません。
お宝エイドでは、上記でご紹介したような、被災地で復旧活動や被災者のサポートを行っているNPOの活動を支援する形で、能登半島地震への支援へとつなげています。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
<参考文献>
[1] 珠洲焼,available at https://suzuware.info/
[2] 珠洲焼資料館,「珠洲焼について」,available at https://www.city.suzu.lg.jp/site/suzuware-museum/list83.html
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