若くして生涯を閉じたジャン=ミシェル・バスキアの人生と作品価値
27歳という若さでこの世を去ったアメリカの画家、ジャン=ミシェル・バスキア。
今回は、アーティストとして、わずか10年ほどの間に3,000点以上のドローイング(線画)と1,000点以上の絵画を残した彼の生涯を紐解きながら、その作品価値に迫ります。
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若くして才能を開花させた天才画家バスキア
1960年12月22日にニューヨーク市ブルックリンで、プエルトリコ系の母親とハイチ系の父親の間に生まれたバスキア。
芸術好きの母の影響で、幼い頃から美術に触れていた彼は、いわゆる文武両道の才能を発揮し、11歳までには3ヶ国語を話、陸上分野でも有能なアスリートとして活躍したと言われています。
アーティストとしての活動はバスキアが18歳の時で、友人と「SAMO」というユニットを結成し、匿名化でグラフィティ作品の制作を始めました。
その間、「Gray」というバンドを結成したり、映画やミュージックビデオにも出演するなど、多彩な活動をしながら、1980年代に入るとドローイングやペインティングを中心とした美術家としての活動を本格化します。
1983年には、ホイットニー・ビエンナーレの現代美術展に、最年少の22歳の若さで参加し、1984年には自身の作品の展覧会がイギリス、オランダ、ドイツで開催されるなど、各分野の著名人との縁もあり、着実に名声を広めていきました。
1980年代半ばには、年間140万ドル(現在の価値で約2億円)の収入があったと言われ、当時まだ無名だった歌手のマドンナとも交際していたことは、後に有名となった話です。
アンディ・ウォーホルとの出会い、そして早すぎる死
1983年には「ポップアートの巨匠」と言われたアンディ・ウォーホルとの偶然な出会いから、コラボレーション活動を行うこととなったバスキア。
約1年半の間にウォーホルと出掛けた作品は150点以上にものぼるとされ、芸術家として確かな成功を収めたその一方で、私生活では深刻な薬物中毒が彼の心と身体を着実に蝕んでいきました。
わずか10年足らずの間に数千点にものぼる作品をこの世に残す一方で、黒人アーティストという人種の壁にも苦しんでいたと言われるバスキアは、27歳の若さでヘロインのオーバードース(過剰服薬)によってこの世を去りました。
日本で愛されるバスキアの代表作と作品価値
バスキア作品で高い評価を得ているのは、主に1980年代に描かれたもので、代表作として下記のようなものがあります。
- 1981年 黒人警察官の皮肉:落札価格1260万ドル
- 1981年 無題(頭蓋骨):ロサンゼルスのブロード美術館に所蔵
- 1982年 無題:落札価格1億1,050万ドル
- 1982年 ジョニー・ポンプの少年と犬:落札価格1億ドル
- 1983年 ハリウッド・アフリカン:ニューヨークのホイットニー美術館に所蔵
- 1983年 In This Case:落札価格9,310万ドル
日本ではバスキアの作品を公立美術館5館が収蔵しているなど、日本は世界有数のバスキア大国と言われ、日本人に親しまれているアーティストでもあります。
2017年には、1982年に描かれた「無題」の作品が、ZOZOの創業者である前澤友作さんが約123億円という、アメリカ人作家の作品として過去最高額で落札したのは記憶に新しいところではないでしょうか。
お役目を果たした絵画をお持ちならば
ジャン=ミシェル・バスキアが亡くなってから約35年が経ちましたが、彼が残した作品価値は時の経過とともに上がり続けていいます。
バスキアを始め、あなたが若かりし頃に手にした絵画は、時を経ても価値は失われることはありません。
もしも、あなたにとってお役目を終えた絵画をお持ちであれば、今その価値を必要としている方の元へつないでみてはいかがでしょうか。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
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