防災の日に考える、防災の歴史と支援の力
9月1日は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災にちなんで、1960年(昭和35年)に「防災の日」と制定され、災害への備えを怠らないように意識を高める日とされています。
これまでの日本の歴史は、地震、台風、豪雨と自然災害と隣り合わせで歩んできました。言い換えれば、私たち日本人は防災や災害に対する意識が他国と比べて高いと言えるのかもしれません。
今回は、私たちが培ってきた防災の歴史と災害発生時の支援の力について考えていきたいと思います。
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防災の意識が明暗を分けた東日本大震災の事例
私たちの記憶にいまだ鮮明に残り続ける災害の1つに、2011年3月11日に発生した東日本大震災があります。
この時、日ごろの防災意識が命の明暗を分けた事例があったことをご存知でしょうか。
岩手県内だけでも、死者4,672人、行方不明者1,122人、合計5,794人にも及んだ大災害の中、釜石市の小中学校の児童生徒約3,000人はほぼ全員が避難できたと言われています。
その理由は、岩手県釜石市の小中学校が防災訓練で行っていた「津波てんでんこ」という教えだったのです[1]。
「津波てんでんこ」の教えが有事の正しい判断を生んだ
青森から宮城にかけての三陸海岸では、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933)と過去に津波で多くの犠牲者を出した場所でした。
その歴史を体験した方の生き抜く術として、釜石市では代々このような教訓が子ども達に受け継がれていました。
”地震を感じ、津波が来ると警報が出たときには、家族のことはかまわず、自分一人が助かることを考えよ”
釜石市の小中学校では、日ごろの防災訓練でこの教訓を徹底していたことから、災害発生時に迷うことなく指定の避難場所に素早く移動できたと言われています。
有事の判断と日ごろの防災意識は比例する
多くの命が助かった一方で、先生・生徒の約7割が命を落としてしまった宮城県石巻市大川小学校の悲しい事例もあります。
津波の襲来が予想される中で、学校南側の裏山に避難すべきか、校庭にとどまるべきか、新北上大橋のたもとへ移動すべきか、この判断の迷いが命の明暗を分けたと言われています。
後に、この時の判断と行動に対して様々な議論がされましたが、この地域にも「津波てんでんこ」の教えが浸透していたら、もしかしたら結果は変わっていたかもしれません。
この2つの事例を知れば、いかに日ごろからの防災意識や防災活動が大切なのかがお分かりいただけるのではないでしょうか。
発生時だけではない復興までの長い道のりで必要になる支援の力
日ごろの防災意識や防災活動が有事の際に命を守ることにつながります。
しかしながら、地震や台風など自然災害というものは発生から復興まで困難を乗り越えていかないといけません。
その間、家族や地域間での助け合いだけなく、国や企業、NPO団体や個人ボランティアなど、たくさんの支援の力が必要になります。
日本で古くから伝わる「困ったときはお互い様」という言葉こそ、災害時には大きな力となるのです。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
<参考文献>
[1] 東日本震災津波の際の明暗を分 けた避難事例から学ぶべきこと
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