日本にも愛好家が多いベルナール・ビュフェ(ビュッフェ)の作品と絵画の価値
第二次世界大戦後の人々の不安感や虚無感を表すような、鋭い黒い描線とトーンが抑えられた色彩が、当時の若者に絶大な共感を得たベルナール・ビュフェ(ビュッフェ)。
1973年には静岡県長泉町にベルナール・ビュフェ美術館が創設されるなど、日本にも多くのファンがいる具象絵画の代表的な画家です。
ひょっとするとあなたも若かりし頃にビュフェの作品に魅了されて、絵画を購入した経験があるかもしれません。今回はそんな彼の作品と絵画の価値について迫ります。
※名前について「ベルナール・ビュッフェ」と表記されることもありますが、以下本文では「ベルナール・ビュフェ」と表記を統一させていただきます。
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若くして名声を集めたベルナール・ビュフェという天才画家
1928年のパリで生まれたベルナール・ビュフェ。10代で母を亡くした彼は、工場経営者で多忙な父との関係は希薄となり、この頃からひとりキャンパスに向かい絵を描き始めたと言われています。
絵画の才能は彼が20歳になった1948年に花開き、パリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞したことをきっかけに、天才画家としての名声をほしいままとしました。
時は第二次世界大戦直後の、戦争の暗い記憶とまだ希望の持てない未来が混沌としていた時代。ビュフェは、その不安と虚無感を表現するかのように、見る物を強く鋭い黒い描線と抑えた色彩で描き上げ、その当時の若者の心を釘付けにしました。
以降も数々の賞を受賞した彼は40代半ばまでは多忙を極め、無心で作品を描き続けましたが、若くして大成したこともあってか40代後半からはマンネリと揶揄されることも多くなり、さらに晩年はパーキンソン病を患い、1999年翌年の個展に出品する「死」シリーズを最後に、71歳で自らの命をたってしまいます。
生前「私は絵を描くことしか知らない」「絵の中に自分自身が埋没してもよい」と語っていたほど、絵を描くことが人生すべてだった彼らしい終焉だったと言えるのかもしれません。
ベルナール・ビュフェの代表作と作品価値
時代の変化とともに、自身の感情を力強い描線によって表現し続けてきたベルナール・ビュフェ。彼の代表作には次のようなものがあります。
<ベルナール・ビュフェの代表作>
- 青い闘牛士
- カルメン
- アナベル夫人像
- バラ
- ニューヨーク
- 鳥
主に市場に出回っているビュッフェ作品は「版画」で、ドライポイントとリトグラフがありますが、ドライポイントに多くの傑作が残されていると言われています。
現在でも高い価値が残されており、風景画で数十万円、人物や動物画の中には1000万円近くで買取される作品もあります。
また、冒頭でも触れましたが1973年には日本に世界で唯一のベルナール・ビュフェ美術館が開館したことで、彼はアナベル夫人とともに日本に7回ほど訪れていたため、日本には自筆のサインが残されている付加価値の高い作品が眠っていると考えられています。
お役目を終えた絵画の処分を検討するならば。新たな価値を与えよう
高度経済成長期の日本でも多くの若者に支持を得た天才画家のベルナール・ビュフェ。その作品価値は彼の死後20年以上経っても、色褪せることなく残されています。
もし、あなたが若かりし頃にビュフェの作品を手にしたことがあり、長きに渡って実家や屋根裏に仕舞われたままだったり、断捨離や生前整理を機に処分を検討しているのであれば、その価値を必要としている方のもとへつなげてみてはいかがでしょうか。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
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