東山魁夷とは。日本を代表する画家の人生と作品価値を紐解く
日本を代表する画家の1人とされる東山魁夷(ひがしやまかいい)。没後20年経った今も個展が開催されるなど、作品への評価や人気が衰えることがありません。
今回は、この東山魁夷の人生を紐解きながら、画家として足跡および作品価値を追っていきたいと思います。
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日本画と西洋画の両方を学び、画家として順調な青春時代を送った東山魁夷
東山魁夷は、本名「新吉」として1908年に船具商を営む東山浩介と妻くにの次男として、神奈川県横浜市で生まれました。
3歳の頃に一家で神戸に引越し、中学2年生で恩師からのすすめをきっかけに画家になることを決意。父親の反対を受けながらも、1926年に東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学しました。
卒業後も引き続き、同学校の研究科に進みドイツのベルリン大学に留学して西洋美術史を学ぶなど画家としての経験を順調に積みますが、1935年に父の病気をきっかけに帰国。
その後、1939年に第二次世界大戦が始まったのを機に魁夷の人生は大きく転落していきます。
戦争と家族との死別を乗り越え決意した風景画家としての生涯
太平洋戦争中の1941年に母が脳出血で倒れてから、翌1942年に父が急死。1945年7月に魁夷本人が戦争に招集され、熊本県で攻撃の訓練を受けるうちに終戦を迎えるも、その年の11月に母が死去しました。
終戦後に支援を受けながら画業を再開したものの、第1回日展には落選。その直後に弟が死去するなど、精神的にも経済的にも「どん底」の時期を過ごしたのです。
しかしながら、どん底まで落ちたことがかえって彼の気持ちは冷静さを取り戻し、努力を重ねて這い上がった先に、第3回日展で「残照」が特選に選ばれ、日本政府に買い上げられたことで、世間への認知・評価が広がっていったのです。
この作品をきっかけに、東山魁夷は風景画家として生涯を送ることを決めたと言われています。
東山魁夷の代表作と作品価値
東山魁夷は、1950年に初めて日展で審査員を任されるようになってから、日本を代表する日本画家としての地位を確固たるものとしていきました。
彼の代表作には、以下のような作品が挙げられます。
- 1947年:残照
- 1950年:道
- 1956年:光昏
- 1960年:青響
- 1963年:白夜
- 1972年:白馬の森
- 1982年:緑響く
日本芸術院賞を受賞したり、皇居宮殿の障壁画を担当するなど、日本の美術界に大きな貢献をしてきた東山魁夷の作品は、その多くが美術館に収蔵されているため、一般の買取市場では出会う機会はほとんどありません。
しかし、晩年にかけてリトグラフやシルクスクリーンなどの版画作品も残しており、その人気と希少性から高額で取引された実績もあります。 また多くの芸術家から支持を得ていた東山魁夷の作品にはレプリカも多く存在し、著名な作家が手掛けた魁夷のレプリカには美術的価値が認められる作品もあると言われています。
絵画の価値は消えることはない。処分を検討しているならば
名実ともに日本を代表する画家である東山魁夷。その作品価値は彼の死後数十年だった現代にもしっかりと受け継がれています。
両親や祖父母が大切にされていた絵画の中に、もしかしたら東山魁夷の版画が眠っているかもしれません。遺品整理や断捨離をされた機会に、一度確認してみてはいかがでしょうか。
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(KOBIT編集部:Fumi.T)
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